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連載コラム
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建築科研究vol.23千葉大学工学部建築学科〈前編〉 栗生明(建築家・栗生総合計画事務所代表)

文・構成・写真:大西正紀(mosaki)

強いヨコとタテのつながりを創り出す

東京から電車で約40分、西千葉駅を降りると、目の前には国立の千葉大学のキャンパスが広がる。文系、理系を問わず、これほどまでに多くの異なる学科が集まっているキャンパスは、全国の大学の中でもめずらしい。そんなキャンパスにある千葉大学工学部建築学科(以下、千葉大建築と表記)では、どのような設計教育が行われてきているのだろうか。今回は、この20年間にわたり千葉大建築教育に携われ、先の3月に退官された栗生明さんにお話をうかがった。早稲田大学で学び、卒業後は建築家の槇文彦の下で働き、やがて独立、そして千葉大の教職へと就いた栗生さんが、何を学び、教職の場で何を実践されてきたのか。

人との関わりの中でこそ学べることがある

栗生明

「ここは受付で、ここが手術室…」「大人になったら自分で病院をやるんだ」小さいころから医者になりたかった栗生さんは、よく友だちと一緒に病院の平面図を描いて遊んでいた。やがて妄想を繰り返すうちに、建築をつくることがどんどん面白くなっていく。高校生になると、実際の病院の写真や図面を見るようになり、自然と建築を学ぶために大学へ行きたいと思うようになった。自由な校風とデザインを熱心に教えていた早稲田大学理工学部建築科(以後、早大理工建築と表記)に憧れて入学した。

まずは早大理工建築で、自身が受けた設計教育の特徴についてうかがった。

「当時、大学には、穂積信夫先生、池原義郎先生、安東勝男先生、武基雄先生、吉阪隆正先生などがいらっしゃいました。入学してみると、かなり設計デザインに特化した教育がされていました。設計製図では、住宅、美術館、図書館といったビルディングタイプごとに課題をこなしていくものだったのですが、それとは別に設計実習という授業がありました。そこでは、2週間程度の短期課題を次々とこなしていきます。例えば、3m立方の中に自分の居場所をつくりなさいといった課題のように、設計以前のインスピレーション、柔らかい発想を鍛える課題が多かったですね。頭の体操をしながら、建築のあらゆる可能性をさぐるという意味では、とてもいいものでした。」

自分の考える建築物を実務的につくる設計製図に合わせて、発想だけにポイントを置いた設計実習を設置し、両輪で設計教育の基礎をまわしていたということだ。

時代は1960年代後半から70年代初頭。栗生さんが早大理工建築で過ごしたころの学生たちは、どんな雰囲気に包まれていたのだろうか。そんな話題を問いかけると、その当時の学生たちにとっては、卒業設計の一番に与えられる「村野賞」が大きな存在だったと話してくれた。

「当時の早稲田には、4年の卒業設計で一番になった人には「村野賞」というものが与えられていました。入学すると、1年生のときからみんなそれを目指して学んでいく。だから、1年生のときから先輩たちの図面を手伝いながら学んでいくのです。
学内には、多くの早大理工建築の学生たちが所属する3つのクラブがありました。稲美会という美術クラブとデザイン研究会、そして漫画研究会。それぞれの先輩たちは、自分の下級生たちに村野賞を獲らせようと躍起になって、1、2年生のときから鍛えるわけです。
だから学内の縦の関係が、非常に強かった。もちろん大学の先生から学ぶことは大きいのですが、こうして先輩から具体的なテクニックを学べることは、大きかったですね。あと、学年が上がると手伝わせる立場に変わっていく。そうすると今度は、下級生にうまく指示をすることも学んでいかなくてはいけないのです。」
このような話をすると、設計というものは個人でやるもので、人に手伝わせるべきではないという意見が大抵の場合出てくる。しかし、時の教授、吉阪隆正は、「建築は一人ではできない。建築は多くの人によってつくられるべき物である。だから手伝わせることも、ひとつの建築術として大切であり、それはトレーニングすべきだ」と説いていたのだそうだ。

「設計の才能がないと分かった学生が、卒業制作に迷って外部の設計事務所に発注したと聞いたことがあります(笑)。そんな学生がいるかと思えば、女子学生だけを集めて、三食食事を作らせながらハーレムのような状態で卒業制作の作業を進める学生がいたり、途中で卒業設計当事者の学生がノイローゼでいなくなってしまって、10人の手伝い中5人が失踪した学生を探し、残り5人が最後まで作業をし続けてちゃんと提出し、その4年生を卒業させたというような事件もありました。それくらいなんでもありだったんです。
今聞くと、どんでもない時代だなと思うかもしれませんが、ここで学んだことは、設計とはかしこまって製図板に向かい、図面を描くことだけでなく、さまざまな状況に臨機応変に対応することができるかということだったんです。今はこんなことは勧めることはできませんが、とにかく面白い時代でした。
今のように出席を取り毎週エスキスを行うということは、きちんとしたサービスを学生に提供している一方で、設計の授業がどんどん息苦しくなっている部分もあります。当時の早大理工建築は、課題も最終的に提出されるもので評価すべきであって、途中のエスキスはどうでもいいという感じでした。だから、僕もほとんどエスキスを受けた記憶がありません。設計とは、きめ細かく積み上げていくものだけではない、1+1が2になるものではなく、様々な状況にダイナミックに対応しながら解を探ることだということも学びました。」

こんな自由な校風を今の時代に復活させることは難しい。しかし、大学という場は授業を受けるだけではなく、むしろ同級生や先輩、後輩、そして先生がいる環境の中で、自分自身が主体となってどうたち振る舞えばいいのか、ということも学ぶべき場なのだ、ということを栗生さんのエピソードは示唆している。

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