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連載コラム
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建築科研究vol.17 東京藝術大学建築科〈前編〉 元倉真琴

文・構成・写真:大西正紀(mosaki)

インキュベーターとして才能を延ばす

乾久美子(1969-)、松原弘典(1970-)、長坂常(1972-)、中山英之(1972-)、山口誠(1972-)、石上純也(1974-)… 近年、30〜40代の若手建築家たちの動向を観察していると、そこには多くの東京藝術大学(以下、東京芸大と表記)出身の建築家たちの活躍が目につく。彼らには、他大学出身者よりも、それぞれに独自のスタンスで"建築をつくること"に立ち向かい、一つひとつの建築物を実直に生み出し続けているという独特のイメージが強い。一方で、東京芸大建築科といえば、少数精鋭の教育。さらに吉村順三を軸にして基礎を作り上げた東京芸大建築科の建築教育は"吉村イズム"とうたわれ、その中で、これまでに名だたる建築家を生み出してきた。しかし、この"吉村イズム"がどう変容し、現代に活躍する若手建築家たちの誕生へと結び付いてきたのか。また、社会が移り変わる中で、東京芸大建築科の建築教育のビジョンはどこへ向かうのか。今回は、プロフェッサーアーキテクトとしてその建築教育に携われてきた元倉真琴さんにお話をうかがった。

ケンチクカ 表紙

東京芸大建築科は2007年に創設100周年を迎えている。その際に出版された記念誌「[ケンチクカ]東京芸大建築科100年建築家1100人」(建築資料研究社)を読むと、設立までの歴史が記録されている。まず1887年(明治20年)に東京美術学校として開校されたとき、設立の中心人物であった岡倉天心(1863-1913)やフェノロサ(1853-1908)が書き残した設立趣意書に「建築」が含まれていることが確認できる。その後、建築科の創設は見送られることになるのだが、実際には1891年(明治24年)に建築教育がはじまる。久留正道(1855-1914)が担当した「建築装飾術」という授業がそれに当たるそうだ。この年、この授業が、東京芸大建築科にとっての大きなひとつの節目となったとの記述がある。

「久留が絵画科・彫刻科の学生に対して建築装飾術を講じていたのは、1891年から93年までの3年である。その間の1892年には、久留の指導のもと、学生たちが1893年のシカゴ万国博覧会に出品する「鳳凰殿」室内装飾を作成している。この鳳凰殿は彼の地で大変話題となり、フランク・ロイド・ライトが日本建築に興味をもつきっかけとなったと言われていることも興味深い。 久留が担当した建築装飾術は、久留の後に、伊東忠太や後述する塚本靖・大澤三之助・関野貞・武田五一に引き継がれた科目で、戦後まで開講されていた。したがってその後への継続性という面からも、建築科にとっては1891年という年に大きな意味を見いだせよう。」 (「[ケンチクカ]東京芸大建築科100年建築家1100人/「PERSPECTIVE 08-1 「建築科100周年はいつなのか?/三井渉」より引用」」

ケンチクカ 中面

その後は、1896年(明治29年)に、図按科の創設により建築教育カリキュラムが整備され、1902年(明治35年)大澤三之助が建築の専門教官として就任し建築専門分野が確立した。1914年(大正3年)には、図按科が第一部(工芸図按)と第二部(建築装飾)へ分離、そして1923年に建築科は正式に創設されることとなる。

それから約20年、終戦直後の1946年に元倉さんは千葉県に生まれた。2才のとき、お父さんの仕事のため東京芸大に比較的近い台東区の下町へ引越し、以降、大学までをそこで過ごすこととなる。東京芸大建築科入学への経緯はどういったものなのだろうか。

「僕は幼稚園から大学までを台東区で過ごし、高校は、上野高校という東大を目指すような当時はバリバリの進学校に通っていたんですが、僕は途中からドロップアウトしてしまいました。

元倉真琴

9つ年の離れた兄がいて、その兄も父も土木関係の技術者でした。だから僕もエンジニアになるのだろうなとは思っていました。けど、父と兄と同じ分野に行くのはためらった。中学校から美術で絵を描いたり、つくったりすることは好きだったから、土木から少しずれて建築の分野に行こうと思うのは自然な流れでした。建築が文化的なものとつながっていることにも興味を引かれました。 ドロップアウトしてしまったから、一浪して建築学科のある大学を受けようと思っていたんですが、どうせ一浪するなら、一番入りにくい東京芸大を受けようと高三の夏休みからデッサンの勉強を始めました。運良く受かってたのはビギナーズラックということですね。」

そう謙遜する元倉さんだが、東京芸大というスペシャルな建築教育を実践する大学への入学は国内でも最も難関かつ門戸が小さいことは言うまでもない。設立以来、その定員は、数名からはじまり、やがて15名へと落ち着いた。倍率は多い年では30倍を超えることもあったという。そもそも東京芸大建築科にとっての入試というものは、入学から卒業までの一連の建築教育の中でも、最も重要視されたものであったようだ。前出の記念誌に下記のようなくだりがある。

「新制大学となった当時の教授の吉田五十八や助教授の吉村順三の言葉にも残されている。吉田は「大学教育は入試にはじまる」と説き、吉村は「建築をやるのはいろんなことを知っていると同時に、感覚がとても良くならなくてはならない」と考えて、受験生の感覚を見ることを重視した試験問題を作成したという。吉村によると、吉村が問題を作成し、吉田五十八、岡田捷五郎が検討・承認するという形式であったようだ。おそらくは、これが感覚考査の始まりである。」 (「[ケンチクカ]東京芸大建築科100年建築家1100人/BODY05「建築と感覚/吉松秀樹」より引用」)


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