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連載コラム
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建築科研究vol.13 東京理科大学理工学部建築学科〈前編〉 小嶋一浩

文・構成・写真:大西正紀(mosaki)

モチベーションを高め続ける

今から約15年前、1990年代半ばごろ、面白そうな建築教育をしているらしいと噂されはじめたのが、東京理科大学理工学部(以下、理科大理工)建築学科だった。やがて、その首謀者が若手建築家集団シーラカンスのメンバーでもあった、小嶋一浩さんであることが分かると、そのユニークな理科大理工の建築教育、あるいは小嶋さんの研究室を目指して、多くの優秀な学生たちが目指すようになったのである。東京から約30キロも離れた、千葉県の郊外にあるキャンパスが、どのように熱い建築教育の場へと変容していったのか、小嶋一浩さんにうかがう。

まずは、大阪生まれの小嶋さんが、どこでどのような建築教育を受けてきたのか、そこから紐解いてみたい。高校生のときには、小嶋さんは建築学科のある大学へ行き、将来は建築家になるのだと決めていたという。そこから、すでに自分にとってフィットする建築家教育への模索がはじまっていたことになる。1970年代後半、主な大学を見てみると、東京大学は芦原義信が、早稲田大学は吉坂隆正が、東京芸術大学は吉村順三が、京都大学は増田友也が教職についていた。いろいろと調べる中で、高校生の小嶋さんは、京都大学へ入学することを決断する。

小嶋一浩

「高校生のころから、建築家になること以外は考えていませんでした。だから、建築家になるための教育はどこへ行けば受けることができるのか。インターネットもない時代に、それなりに一生懸命調べて、1978年、京都大学へ入学しました。その時は、東京の大学はピンとこなくて。けれども、京都大学の先生方がされていたことは、高校生が斜め読みしても、その面白さがわかりました。しかし、入学した年に、それまで第一線で活躍されていた増田友也(1914-1981)先生は、定年で退職されてしまい、「お祭り広場」などの設計にも携わられていた都市計画家の上田篤(1930-)先生が、大阪大学へ転任されたりと、それまでの良い痕跡が残るばかりの状況だったのです。だから、入学してから何度も、もう辞めてしまいたいなと思うことがありました。
当時の京都大学には講評会なんてまったくありませんでした。卒業するまでの間、一度たりとも自分の作品がどうだなんて、言われたことはなかった。エスキスはもちろんあるのだけれど、大抵は助手の人や大学院生が見てくれる。当時、助手だった前田忠直さんにはとても丁寧に相手をしてもらいました。けれど、たいてい設計課題は提出して二ヶ月くらいたつと、製図室の机の上にバサっと置いてあるくらいで。自分の設計の成績は半年ごとにわかるのだけど、ひとつ一つの課題がどうだったかなんてわからないわけです。」

もちろん、大学の建築教育は設計課題だけではない、ゼミは、大学院はどうだろう?と建築家を目指す小嶋さんの好奇心を満たす"何か"はないのか、探し求めてはみたが、なかなか見つけることはできなかった。大学院を覗くとある研究室では、プラトンや道元の原書を読んでいた。それ自体の意義は理解できたが、自分の目指す建築家の道とのつながりはまったくわからなかった。そんなとき、二年先輩の松隈洋氏に出会った。

「松隈さんは、大学卒業後、前川國男建築設計事務所に入るような建築家志望の方でした。松隈さんから、オープンデスクというシステムがあるからと教えられ、建築家の事務所へ行ってみたり、建築家の人たちに声をかけると講演会に来てくれるという話を聞いては、同期の元気な奴らと一緒に、東孝光さんや宮脇檀さん、槇文彦さんなどを学生主催で大学へ来てもらいました。 そのときに僕らとしては、自分の設計課題の案を見てもらいたいので、建築家の方がいらっしゃるときに、直近の提出課題を貼っておくんです。それで、少しの時間でいいので、気になった作品だけコメントしてくださいとお願いするような、自主的な講評会をしたりしていましたね。僕も三年生のときに槇さんに自分の美術館の課題を見てもらったことを覚えています。」

入学前から、建築家になりたいと強い気持ちを持ち続けていた小嶋さんが、大学学部卒業後、他の大学の大学院へ行こうと決断するのは、至極自然な流れだった。

「やはり建築家になりたいのであれば、誰かの背中を見て、歩くなり、走るなりしないといけないと思いました。けれど、建築家になるには、建築家という会社に就職するわけではないので、なり方がよくわからない(笑)。なり方というのは、講演会に来て下さっていたような大人の建築家を見てもよくわからないわけです。もちろん、先輩には黒川紀章さんや、高松伸さん、竹山聖さんなどがいて、後に僕や渡辺真理さん、高橋晶子さん、若手だと槻橋修さんや平田晃久さんたちが、京都大学卒の建築家として世に出ています。しかし、皆さんほとんどが東京の大学院を経て建築家になられている。大学にいる先生方はとてもいい方ばかりだったのだけれど、建築家がどんどん育っていくような環境ではなかったわけです。
けれども、自分は、そのもどかしい想いが原動力になりましたから、今になって、もしかしたら学部教育なんて、そんなにきちんとしないで、学生が怒り狂っているくらいの方がいいのかもしれない。あまり至れり尽くせりではなく、余計なお節介をしない方がいいのでは、と思うこともあります(笑)。」

建築家になるための大学院をどこで過ごすか。そのときも、また高校生のときのように徹底的に調べた。最終的には、東京大学の槇文彦研究室、東京大学の原広司研究室、東京工業大学の篠原一男研究室で迷った。槇氏に関しては、とにかく雑誌の記事から英文まで徹底的に文献を読みあさった。デザインも大好きだったし、書いてあることも理解できた。しかし、この3人の建築家の中で、どうしても最後までひっかかる人がいた。それが、原広司氏だった。

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