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連載コラム
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建築科研究vol.9 「横浜国立大学大学院/建築都市スクール」Y-GSA〈前編〉
建築家という人間を育てるための教育

2007年、横浜国立大学大学院が建築家教育に特化した大学院として名前を「横浜国立大学大学院/建築都市スクール」"Y-GSA"(Yokohama Graduate School of Architecture)と改め、生まれ変わったことが大きな話題となった。そこでは4人の先生が出す課題に対し、学生たちが2年間トライし続けるというユニークなスタジオ制が導入された。開校から3年、今や数々の学生コンペティションの現場では、必ずY-GSAの学生の名前を見るようになっている。この新しい大学院の試みは、どのようなビジョンのもとで改革が行われたのであろうか。今回は、横浜国立大学教授であり、Y-GSA開校の立役者でもある北山恒氏に話をうかがった。

中村順平による私塾的教育

横浜国立大学は、前身である横浜高等工業学校(1920年1月~)、横浜工業専門学校(1944年4月~)を経て、1949年5月に開校された。建築学科は1924年に設立され、そのとき主任教授であったのが建築家、中村順平であった。中村は、ル・コルビュジェらによるモダニズムに世界中の注目が集まる時代に渡仏し、モダニズムとは対局にあり、古典的建築家教育を実践していたエコール・デ・ボザール※1で学んだ。ボザールで学んだ日本人は、中村がはじめてであった。

「ボザールと聞くと、保守的なイメージがありますが、中村順平先生はボザール特有の古典的建築教育を受けながらも、ボザール内にいた伝統的様式建築の中に新しい建築をつくろうとしていた人たちにも、多くを学んでいたようです。結果として、中村先生は、ボザールで大変優秀な成績を修め、フランス政府認定の建築士の資格まで持っているほどだったそうです。ボザールと敵対し、新しいモダニズム建築を展開していたコルビュジェにも評価され、個人的な交流があったそうです。その後、坂倉順三さんがフランスへ留学されるときには、中村先生が推薦文を書き、コルビュジェにも紹介していたようですから、コルビュジェと日本をつなぐパイプ役としても重要な立ち位置にいらっしゃったのですね。」

1924年、中村はフランスから帰国すると、横浜高等工業学校に設置された建築学科の初代主任教授として教育に従事。その後、1950年までの25年間、横浜高等工業学校、横浜国立大学と教鞭を執り続けた。その間、中村によって実践された建築教育は、まさにボザール流であったという。全てに妥協をせずドローイングの授業に12時間ものエスキスを行ったという伝説があったり、デザイン教育では学年制を排除したシステムを導入した。今、思えば、Y-GSAの建築教育に対するアイデアの源泉がここにも見ることができる。

北山恒

「中村先生が行っていたのは、まさに私塾だったようです。学生たちへ常日頃、"建築というものは、色んなユニークなことをやったらいい"とおしゃっていたそうで、横浜港開校記念イベントの際は、建築学科の学生が頭に大きな船の飾り物を被ってパレードを行ったり。とにかく、"人間は楽しく愉快にあり、その上で建築をつくる"ということをモットーとされていたそうです。」

中村順平を中心に行われていた約25年間の横浜国立大学建築学科の教育は、現在、日本における建築教育の多くの現場で見られる"建築学"教育ではなく、ユニークな"建築家"教育が実践されていたのであった。しかし、中村順平退官後そのユニークな存在の反動なのか、横浜国立大学建築学科は、日本の他の大学の建築学科と同じように、設計デザインを中心とする教育というよりも工学技術研究を中心とするものへとシフトしていくこととなる。

※1:エコール・デ・ボザール
19世紀、フランスのパリに設立された美術学校。17世紀のフランス王立アカデミーの付属学校が起源。1819年に、絵画・彫刻・建築の部門が統合され、国立の美術学校「エコール・デ・ボザール」となり、建築、絵画、彫刻の分野に芸術家を多く輩出した。ボザールでの教育は伝統的でかつ、古典主義的な作品が理想とされ、これらの理想化された様式を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムであった。

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