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連載コラム
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建築科研究vol.6 黒沢隆と日本大学理工学部<後編>「街社会で育んだ自由な精神を持って」

黒沢隆が引き継いだ精神

後編のVol.6では、前編に引き続き、教育現場での黒沢の姿、また黒沢のいた日大理工建築のスクールカラーについて、重枝豊さん(歴史家/同大学准教授)に話をうかがった。

ここで一度、日大理工建築の歴史を振り返ってみよう。第1回の広瀬鎌二と武蔵工業大学への取材でうかがった新居千秋さんの話にもあったように、戦後日本の大学はそれぞれに役割があったようだ。1920年、日大理工の前身である日本大学高等工学校もまた、短期間に技術者を養成するための特殊な学校として生まれた。当時の建築業界は辰野金吾が亡くなり、佐野利器や内田祥三らを中心とした構造学派が、セメントや鉄鋼などの新時代の材料、技術が求められる時代と合わさり、中核となっていた時だった。そして、その佐野利器が初代の高等工学校校長に就任する。

「大学の建築設計の歴史としては、1946年(昭和21年)に吉田鉄郎がデザイン系の主任教授となったことからはじまったのだそうです。日大理工建築におけるはじめてのプロフェッサー・アーキテクトですね。僕が大学に入学したのはその約30年後になります。当時は、小林文次先生や近江榮先生が教鞭に立たれていて、学生に対して大きな求心力をもっていました。
小林先生は、歴史のないものは研究できないという立場で、明治以前のことを中心に研究されていました。建築を理解するには歴史ある建築の持つルールを学び取らなくてはならない、とよく仰っていて、噛み締めるほど濃厚な講義でしたね。ユネスコの文化遺産部門を担う組織の理事として長年にわたり国際的に文化財保護の活動などで活躍された方です。
一方で、近江先生は、古いことを知っておくことは大事だけど、過去の建築を体系的に感じるだけではなく、自分にインパクトを与えるものを自分なりに探すことに重点をおいていらした。近代建築史を中心に、歴史に埋もれていた建築家や建築にスポットをあてて研究する一方、コンペの研究でも第一人者でした。第二国立劇場を始め、多くの設計コンペやプロポーザルの審査を手がけた先生です。」

その近江研究室に属するかたちで黒沢隆ゼミが存在していたことは、前半の佐藤さんの話にもあったが、その経緯はどのようなものだったのだろうか。
「小林先生もそうでしたが、それに輪をかけて近江先生は大学の外から人を招いてくるのが好きでした。そういうこともあって、正式な研究室としてではないのだけど、小野正弘さんや黒沢隆さんなどが近江研の下につくかたちでゼミを持っていて、それぞれ3人ずつぐらいの学生が所属していたんです。当時、設計を志す人たちは近江研のゼミに所属することが多かったのだけど、学生たちは『俺は黒ゼミだよ!』とか言いながら、自分がどのゼミに所属しているかということに強いアイデンティティを持っていました。」

1941年生まれの黒沢隆氏は、1971年に日本大学大学院を修了後、黒沢隆研究室を設立し、住宅を中心に設計活動を始める。しかし、学生時代から多くの建築批評を発表し、篠原一男の住宅に対して批判を展開したことでも有名なように、当初からその活動は純粋な設計活動だけに留まらない。

「黒沢さんも近江先生と同じように、過去のことに学びながらも、やはり物づくりの方向へ行く。黒沢さんの活動を見てみると、建築作品が少ない時期も見られるけれども、その間も、「個室群住居」(住まいの図書館出版局/1997)をはじめとした書籍を執筆したり、各所でレクチャーを続けていた。いろんな意味で建築教育が本当に好きな人なんだと思います。そして、全てにおいて読めない未来を先取りするような内容でした。そこにはきっと、今こうすればこの後誰かが到達してくれる、という思いがあったと思うんです。だからこそ、単に建築作品をつくるだけではだめだった。古いものを現代の目で見直す、ということを全てに徹底させていく系譜を、大学教育の中でも築かれたのだと思います。 そういう黒沢さんなので、その時々でいろんなことをなされていました。ある時期には住宅の思想性を中心に据えて、例えば、猿の群生から学ぶと言って、その専門家を外部から呼んで勉強会を開いたり。そうかと思うと『建築は断面から考えろ!』と熱心に言う時期があったり。あと、黒沢さんはとにかく図面の量が凄かった。『図面を書かない建築家はだめだ』と常々仰っていましたね。」

「日大理工建築の歴史研の系譜を今考えてみると、当時、小林先生の下について、昨年の退官まで教鞭に立たれていた片桐政夫先生は、小林先生の実証的な研究スタイルを引き継ぎながらも、韓国の建築を中心に研究をされてきた。僕の隣に研究室を持つ大川三雄先生は、小林先生、近江先生とは違う方向へ行き、既存の建築史を時代に合わせて体系化しようとされている。僕自身はアジアを実践の場として実証的に研究しています。そういう意味では、小林先生、近江先生以後の歴史系研究室は、先の先生たちの活動や実績をそのまま引き継ぐのではなく、むしろカウンターとしてそれぞれ自分の専門分野を築いてきたのかもしれません。そう考えると、小林先生と近江先生が持っていた良さを引き継いだのは、実は黒沢さんだったのかと今改めて思いますね。結果として、黒沢さんは常勤の大学の先生となることはありませんでしたが、その後、黒沢ゼミ出身の建築家や歴史家を多く輩出したことを考えても、日大理工建築の歴史の中では大きな役割を果たしたことには間違いありません。」

近江研にゼミを持っていた建築家、黒沢隆が近江氏の建築に対する姿勢を純粋に継承し、純正な歴史家としての弟子たちが、それぞれの道を歩んだということ。これは意外な驚きだった。近年のプロフェッサー・アーキテクトを要した設計・意匠系の研究室であればまだしも、歴史系の研究室で、先生の研究を弟子たちが引き継いでいくのではなく、それを敢えて避け、新しい道を開拓する姿勢、またそれを受け入れる潮流があったというのだ。話は徐々に日大理工建築のスクールカラーの話へと進んでいく。

「他の大学では、特に歴史系などは、先生が大きな幹をつくって、それに沿った小さな枝が出て行く。ひとつひとつをまさに受け継いでいくのが普通のシステムなのでしょう。けど、近江先生や小林先生たちは、僕らがつくる小さな枝がどんどん枝分かれしようとも、むしろそれを良しとした。それが外から見たときに大きな樹木になればいいということだったのですね。だから、「これを研究しなさい」ということは一言も言わないし、どんどん違うことにトライしていく人たちが増えていくことを喜ぶ姿勢すらあったのだと思います。」

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