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連載コラム
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建築科研究vol.5 黒沢隆と日本大学理工学部<前編>「大学が与えるもの・自分が学ぶこと」

日本の住宅の歴史を紐解く上でキーポイントとして必ず登場するのが、建築家、黒沢隆による「個室群住居」(住まいの図書館出版局/1997)である。当ウェブマガジンの「家の知討議」の座談会でも幾度となくその話題が登場している。その黒沢が主に教鞭をとったのが母校の日本大学理工学部建築学科(以後、日大理工建築と省略)だった。そこで今回は、教育現場での黒沢の姿、また黒沢のいた日大理工建築のスクールカラーについて、前編では佐藤光彦さん(建築家/同大学准教授)、後編では重枝豊さん(歴史家/同大学准教授)二人へのインタビューから解き明かす。

自主的に学び続けた学生時代

建築家で佐藤光彦建築設計事務所代表の佐藤光彦さんは、日本大学理工学部建築学科出身。学部在籍当時、黒沢隆のゼミに在籍していた。佐藤さんが建築家を志す予兆は、幼少期のエピソードからも感じられる。

「子どもの頃は、身体が弱くて入院することが多かったんです。そのとき親に百科事典や図鑑を買い与えられて、ひたすら読み込んでいました。だからだいたいのことを知っているつもりでいた子どもでした。その頃からどんなものでも、とにかく図面というものにずっと興味があったんです。中学時代は「日本の城研究会」に所属していました。中学にそんなサークルがあるというのも珍しいと思いますが(笑)。中高一貫の学校だったので、この研究会を通して、中学高校時代に日本国中をまわりました。メンバーには歴史好きが多かったけれど、僕は圧倒的に建物が好きだった。シンボリックな天守閣ではなく、気になっていたのは城の縄張り(配置計画)。堀の巡らせ方ひとつとっても、地形や時代によってずいぶん違うんです。今、特に城に興味があるわけではないけれども、きっかけとしてそのような経験がありました。」

そんな佐藤さんが大学入学後、設計を志し、黒沢隆のゼミを選んだのは自然な流れだった。当時は、歴史系の近江榮氏、小林文次氏の二人が自らの研究室を持ち、またそれぞれに設計をはじめとしたさまざまな分野の人が集いゼミを持って学生を指導していた。その中のひとつとして黒沢ゼミが存在していた。

「当時の日大では設計系の研究室というものはなかったと思います。設計をやりたい学生は近江研究室か計画系の研究室に所属するしかなかった。だから、建築家を志す人が歴史系の研究室へ行くことがごくごく当たり前でした。例えば、大先輩の山本理顕さんも歴史系の小林研出身だし、高宮眞介さんや椎名英三さんも近江研の出身です。
その頃は、近江研の中で黒沢隆さんや小野正弘さんなどの非常勤として大学にいらしていた建築家の方がゼミをもっていて、それぞれ5人くらいの学生を指導していたんです。設計の授業では、非常勤の先生も、今のように外部から建築家を呼ぶというより、日大のOBが教えに来るというスタイルでした。
最近、東京と大阪の中央郵便局の保存問題などがメディアで採り上げられることが多いこともあってあらためて思うのは吉田鉄郎のことです。吉田鉄郎は終戦直後に日大の教授になるのですが、ほんの数年で病に倒れてしまう。もしお元気で長く教鞭を執られていたら、日大の設計教育や設計系研究室の伝統のようなものが生まれていたかもしれませんね。あの厳格で繊細なデザインは日大のカラーに合うと思うし、さらには逓信省の同僚(ライバル)山田守が東海大の湘南キャンパスを設計したように、日大の船橋キャンパスを吉田鉄郎が計画していたら・・・などということも想像してしまいます。」

4年生の時に黒沢ゼミに所属するようになった佐藤さんだが、大学入学当時から大学にはほとんど顔を出していなかった、と苦笑する。

「大学2,3年生のころは、僕は東京大学生産技術研究所にいらした原広司さんの研究室へ遊びに行ったりしていました。そこには原さんの海外の展覧会の手伝いなどで、いろんな大学の学生たちが集まって作業をしていました。アクリルでオブジェをつくったりしていて、「建築なのに何でアクリル板を削っているのか」と驚き、建築に対する視界が広がったような気がしました。後にシーラカンスを結成する小嶋さん達が大学院におられた頃です。原さんの自邸も見せて頂いて、その時の空間体験は今考えてもとても刺激的でした。
あとはひとりで勉強することが多かったですね。1年生の夏休みには「村野藤吾和風建築図集」と「コルビュジェ全集」を借りて、読みふけっていました。3年生くらいの時に、レム・コールハースがラ・ヴィレット公園のコンペ案などで登場したときは本当に鮮烈で、大きな影響を受けました。大学には相変わらず顔を出さないんだけども(笑)。因みに設計製図の成績は、全然よくなかったです。4年生になると自由に考えられるような課題になって評価も良くなったんですが、それまでの図書館や美術館とテーマが決められているものに対しては、うまくリアリティを持てなかったという気がします。
授業には出ないけど、都市空間研究会というサークルに入っていました。都市のサーベイをやったり、建築展やレクチャーなどを自分たちで企画したり。構造や写真のサークルなど一緒になって、有志のみんなで自主的にいろんなイベントをやっていました。最近はこのようなサークルも減ってしまっているみたいですね。日大で企画しているイベントも、学生に任せた方がいいのかな(笑)。自分たちで企画して動くという体験は、勉強になりますから。」

学生時代夢中になって読んでいた建築雑誌「都市住宅」。写真は伊東豊雄設計の住宅の特集。
大学という場所は、必ずしも何かを与えてくれるところではない。そして学生という存在は、常に自分で取捨選択し、知恵の種をどう集め自分のものとしていくのかが問われるものかも知れない。それは学生が学生たる特権のひとつとも言える。佐藤さんは学生だった当時、大学にある「何か」に気付けたら、もっと出席もしていたかも知れない、と振り返るが、じっとしていたわけではない。時には学内で、時には学外で「何か」を求めて動き、自らの意志で建築を学んでいった。

「4年生で黒沢ゼミに入って卒業設計などを指導してもらいました。僕にとって黒沢先生は気むずかしいというか苦手な印象がありました。先生は思考も設計もきわめて厳格で、僕などはどちらかというと逆なので、なかなか正面から対することが出来なかった。あまり学校にも行かず、黒沢先生と触れる時間が少なかった僕がこんなことを語るのはおこがましいのかもしれませんが、黒沢先生は“近代”というものの範囲を自ら規定し、その中で建築家としてやるべきことはこれだ、と自分を律していらした。そのような論考から「住宅の逆説」や個室群住居が生まれていった。その姿勢は素晴らしいと思いながら少し窮屈な感じもしていました。黒沢さんが仰っていた近代における建築とは、成熟した近代人がいる社会であることが前提だったのかもしれません。けど、実際は現代でもなお、そうはならない。それが建築の難しいところだと、僕自身が建築家となった今、改めて思うのです。」

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