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連載コラム
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建築科研究vol.4 池辺 陽〈後編〉美学を自制する精神

短気が災いし、学生やマスコミとも疎遠になりがちだった池辺陽。一方、東大の学生紛争に巻き込まれた結果、池辺の研究室に流れ着いたという難波さんは、間近で池辺の様々な面を垣間見るうちに「このまま池辺を歴史から抹殺してはいけない」という使命感に駆られてゆくのだった。

美学に背を向けた理由

「『文藝春秋』誌の1960年5月号で、「建築家ベストテン=日本の十人」という記事が掲載されています。当時の建築界から旬の建築家10人を選ぶという企画なのですが、ここでは一位に前川国男、二位に丹下健三と続き、池辺は五位にランクインしています。一般紙の記事で五位という注目度があったくらい、当時の池辺は活動していたんですね。だけど『新建築』とも喧嘩していた池辺は、専門誌の特集には取り上げられない。「そごう事件注釈:1」で建築家たちが新建築の姿勢を批判して掲載をボイコットした時も、他の建築家はしばらくしたらボイコットをやめて戻っていくのに対し、最後まで頑なに抵抗を続けたのは池辺だったんです。」

難波さんが発見した、いくつもの池辺の表情。そのひとつには、徹底した合理主義者としての顔があった。

「美学的なことを口にするとすぐ怒るんです。怒り狂ってましたね、カタチのことなんて話すと。『カッコいい』とか『美しい』なんて言おうものなら『お前がカッコいいと思っているかどうかなんて、社会にとってはどうだっていいんだよ』って。なんでそんなにムキになるのかなあって、僕にとっては長い間謎だった。どうやら、戦前までは池辺はすごく美学的な人だったようなんです。故・芦原(芦原義信氏。池辺と大学時代の同級生だった)さんも池辺が戦後どうしてあんなに合理主義へと傾いていったのか不思議だと話していました。」

難波さんは、著書「戦後モダニズムの極北-池辺陽試論-(1998年/彰国社)」でも、次のように記している。

そもそも僕が池辺の仕事について詳しく調べてみる気になったのは、池辺のデザイン思想の中に美学がどのように位置づけられているかを知りたいためだった。(中略)池辺の仕事を過去にさかのぼって調べていった結果、戦前に書かれた池辺の卒業論文と卒業設計にたどり着いた。それは、戦後の池辺からは想像もできないような美学的テーマを扱っていた。

池辺は生粋の合理主義者ではなく、戦後からの合理主義者であった。池辺が戦後、美学を超えた合理性、あるいは美学の裏付けとしての合理性を追求するようになったのは、なぜだろうか。難波さんはこう考える。

「デザインの手法-人間未来への手がかり」 (1973年/John Christopher Jones(著)/池辺 陽(翻訳)):6つのインプットと6つのアウトプットをマトリックスにして、より合理的なデザインの手法を示した一冊。

「戦争ですよ。戦前に美学的なことをやっていた建築家たちが、大東亜共栄圏に巻き込まれていった。池辺はその流れを若い頃に目の当たりにして抵抗を感じ、元々自分の中に美学へ惹かれる部分があることを知っていながら、自分で抑え込んだんじゃないかと思うんです」
1930年代、西洋に追いつけ追い越せという政治的な思想活動が盛んだった時代に、建築家たちは「日本的なもの」の中に日本のアイデンティティーを模索しようとしていた。若き池辺の目には、美学という甘い蜜は時としてプロパガンダの道具となってしまうこと、政治や時代背景に踊らされる脆いものとして映り、その結果として機能や技術、システムといった合理性を追求するようになったという。
これは池辺が「伝統」を扱う態度にも共通する。1950年代には建築界全体で伝統論争なるものが繰り広げられたが、池辺は伝統を美学で語るのではなく、生活そのものから総体的・歴史的に捉えるべきだ、と主張していた。学生やマスコミとの縁が途絶える池辺は閉鎖的に見えるが、建築ではむしろ、かたちや精神論に収束しがちな美学の殻から決意を持って飛び出し、建築を社会に開くこと、建築で現実を変えることに実直に取り組んでいたのだった。

※1:「新建築事件」とも言う。1957年、『新建築』で村野藤吾設計の有楽町そごうに対し批判記事を掲載した結果、『新建築』誌社長の怒りを買い『新建築』のスタッフが一斉に解雇された事件。

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