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連載コラム
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建築科研究vol.3 池辺陽<前編>池辺の存在に気付いた瞬間

第二次世界大戦後、日本の「家」は新たなスタートに立たざるを得ない状況下にあった。民主化、合理化が社会全体で推進された時代の流れは、家族の在り方、「家」の在り方そのものを大きく転換させ、さまざまな建築家によって新しい日本の家のプロトタイプが発表された。池辺陽の「立体最小限住宅(1950)」は、その中でも代表的な作品のひとつで、後の住宅に大きな影響を与えている。夭折し、現在多くを語られる機会がない池辺だが、美学や感覚といったもののあいまいさ、甘さを徹底的に疑い、本質的な合理化をストイックに追求したその思想の中には、日本の「家」が今もなお向かい合うべきテーマに満ちている。「建築家研究」第二回は、1998年に「戦後モダニズム建築の極北?池辺陽試論」を上梓した、池辺陽研究室出身の難波和彦氏にお話を伺った。

学生紛争とふたつの建築学

東京大学には学部卒業後、建築を学ぶ場がふたつある。ひとつは本郷にある工学系研究科、そしてもうひとつは、大学に附置する研究機関としての東京大学生産技術研究所(以下生研)で、かつては六本木(跡地には国立新美術館が建設された)、現在は駒場東大前にある。東京帝国大学だった時代、前者は第一工学部として先に設立され、後者は第二工学部がその前身にあたる。池辺陽は第一工学部建築学科出身だが、卒業後は第一工学部の大学院に進学し、修了後一旦社会に出た後、第二工学部の講師となり、そのまま生研に自身の研究室を構えた。難波さんが池辺の研究室の門をたたいたのは1969年のことである。それまでは、池辺の存在自体を知らなかった。当時は社会全体が学生紛争の最中にあった。

「池辺は当時から有名な存在でしたが、知らなかったのは完全に僕の勉強不足です。しかし大学2年生の後半に建築学科に進み(東京大学は、最初の1年半は全員駒場の教養学部で学び、2年生後半に専門学科を選ぶシステムである)、その後は学生紛争で騒いでばっかりで、知るよしもなかったですね。1968年に起きた大学紛争は、東大や日本だけでなく、世界同時多発的に発生し、社会に大きな影響を与えました。東大の工学部では、建築と都市が過激だった。逆に船舶や機械は右寄りで。片方がバリケード封鎖したら、もう片方がそれを破りにくる。学内同士で殴り合いですよ。喧嘩になって、僕も学内で友達をたくさん失いましたね。」

この学生紛争が、難波さんの研究室選びにも大きな影響を与えた。

「設計をやりたかったので吉武泰水先生の研究室に行きたかったのですが、本郷はこの騒動の影響をモロに受けて、ガタガタになっていました。生研はそう影響を受けていなくて、僕はそっちに行くことになったんです。学部時代、本郷で僕は学内の反対派に捕まってボコボコに殴られた。財布や学生証を没収されてトイレに頭をぶち込まれて、鼻を折られて気を失って。どうやら難波がやられたようだ、という噂が建築学科でバーっと広まって、それまで活動していた学生は蜘蛛の子散らしたように退散したんです(笑)。助けてくれないのかって感じですよね。その後みんな大企業に勤めて、いい給料もらって、すっかり風化してしまって。なんだか人を信じられなくなるというか。」

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